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<済衆院>VS<済衆院> 病院へ歩いて入ってきた朝鮮 [【韓国ドラマ】済衆院]

韓国ドラマ「済衆院」に関する記事を拙い文ですが訳してみました。
ドラマの1/310話くらい)を見終わった方にちょうどぴったりの記事だと思います。このドラマの展開について何かもやもやした感じがする方は是非ご一読ください。

私はこの記事を読んだ時、記者たちの意見と全く同感だったのでとってもすっきりしました。
その後「済衆院」のストーリーは序盤とはまた別の面を見せ始め、また激動の時代の歴史的なうねりに揉まれながら、もっと奥深い部分へ進んでいきますよ。それから切ないけれど素敵♡なシーンもこれからですよ!!!

<済衆院>VS<済衆院> 病院へ歩いて入ってきた朝鮮

10asia > NEWS > TV vs TV
  2010.02.10  
文:カン・ミョンソク、ユン・イナ(TV評論家) 編集:イ・ジヘ

旧韓末は混乱の時代だった。風前の灯であった国家の運命とは反対に西洋の文物は積極的に流入され始めた。市場の通りでも珍しくなく見かけられていた西洋人達は書堂と医院を代替する学校と病院を建て始めた。そして朝鮮初の近代式国立病院の済衆院が建てられた。

宮中での政争ではない民衆たちの日常へと走り出した時代劇が大勢であるこの頃、御医ではない庶民の医者が執刀するドラマはどんな姿だろうか?<10アジア>カン・ミョンソク記者とユン・イナTV評論家がSBS<済衆院>を手術台に上げた。

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1884年(高宗21年)、金玉均と洪英植などの急進開化派は朝鮮の近代化を目的に政変(訳者注:甲申政変)を起こすが、この類例ない上からの改革は結局三日天下に終わってしまう。

SBS<済衆院>はその時代に一人で寂しく戦って、自身の人生を下から改革していった白丁ソグンゲ(パク・ヨンウ扮)の物語だ。旧韓末は多くのものが変化していく時代だったというが、民たちはこれまで通り西洋人を子ども達の魂を抜き取っていく「洋鬼」と信じるほどに無知だったし、身分の境界がはっきりしなくなっても白丁は相変らず名前さえ犬扱いされる賤民だった。時代の変化は果たして白丁も食肉を扱う刃物ではなく人間を生かすメスを握るようにしてくれる事ができるか。<済衆院>はまさにこの質問から始まる。

メスを持つようになる白丁が直面することになる世の中
済衆院VS済衆院ジョン.jpgこの質問に対する答えから話そうとすると確かに白丁ソグンゲは人間を生かす刀「メス」を握るようになるのだ。しかし問題は結果ではなく過程にある。白丁が西洋医学を学ぶ医学生になることがどれ程大変な事であるかを見せてくれるために、ソグンゲは絶え間ない死の脅威を越えなければならない。そうしてソグンゲが「人間を生かす仕事」を自分の手でできると悟り、西洋医を夢見る黄丁(ファン・ジョン)へと一段階成長するのを見ることは、個人の成長だけでなく時代の変化を見守る過程でもある。

この地点で重要なことはソグンゲの「改革」が単純な善と悪の構図で置き換えになってはだめだという点だ。究極的に<済衆院>の道徳が結局善い人と悪い人を区分することにあるのではなく、「もっと痛い人」に向かわなければならない究極的な人類愛にあるのなら、単純な善悪の構図は<済衆院>の世界観を描き出すことに当たって妨害になるためだ。

<済衆院>はこの地点でやきもきする境界に立っている。例えば「医師は患者を拒否してはいけない」という医療宣教師アレン(ショーン・リチャード扮)の哲学と、お金を払えないという理由でソグンゲの母の治療を拒否していたワタナベ(カン・ナムギル扮)は劇中で明らかに対比されている善と悪だ。

しかしファン・ジョンは、白丁が生きた獣の命に向き合う時敬虔な心で臨むように、人の命を貴く思いながら切実だが貧しくないように自分の運命に対立する姿で図式的な構図を越える。誰にも被害を与えないで自分の足で立つことができる女性ソンナン(ハン・ヘジン扮)と最高の両班の地位にありながらも西洋医になろうとするペク・トヤン(ヨン・ジョンフン扮)、皆それぞれ時代にふさわしい姿で描写される。

無知な民と啓蒙の先鋒に立った済衆院
しかし中心人物たちが全て開化期に時代を率いていく人物として描かれるのにつれ、ある瞬間の<済衆院>はまるで啓蒙ドラマのように見える。民たちは迷信を信じて根も葉もない噂に付和雷同して済衆院と西洋医学を信じないし、<済衆院>の主要登場人物たちは民たちの無知にため息をついて、彼らに西洋医学の優秀性を証明して病気の苦痛から解放させてくれるのを願う。まるですでに開化されている立場から当時を見ているような視線だ。

どんな時代を描くのかも重要だが、「どうして」を描くのかがもっと重要な問題であることを考えてみると、今<済衆院>の度を越す現代的な視線は問題的であるより他にしようがない。何より無学な民とその反対の立場に立っている主人公たちという構図は、白丁が西洋医師になるドラマの大きな話の筋を裏切ることだからなおさらそうだ。

今までの<済衆院>は千字文を覚える音律に合わせて「黒はブラック。青はブルー」と同じやり方で英単語を覚えるファン・ジョンの姿と同じだった。<済衆院>はその間光が当たらなかった時代の、また語られなかった階級の人々を物語る歴史ドラマだが、自分の前の難局を解決しながら成長している話の公式は今までの歴史ドラマでよく見てきたものだったし、その中には昔の事と新しい事が、旧韓末を見る視線が整理されていないまま混在している。

10話に至ってこそ<済衆院>は本当の「済衆院」の話になった。医学生達が入学して本格的な病院としての姿が取りそろいながら「済衆院」には時代を代表するに値するあらゆる人物達が集まってきたし「済衆院」は存在それ自体で旧韓末朝鮮になった。中心人物達だけに集中していた視線は多様な人物へ振り分けられた。予定されている分量の1/3を経ながら新しい道に入っていった訳だ。果たして<済衆院>は自身の中に残っている混乱を整理して今この時代と対話する真正な意味の「ハイブリッド」歴史ドラマになれるだろうか。(文・ユン・イナ)

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良い奴、悪い奴、間抜けな奴、そしてその間に挟まった女の子。SBS<済衆院>の人間達はこの四つの部類に分かれる。西洋医術で人を救うファン・ジョン(パク・ヨンウ扮)とアレン(ショーン・リチャード扮)の反対側には二人を妨害するペク・トヤン(ヨン・ジョンフン扮)とワタナベ(カン・ナムギル扮)がいて、彼らの間にはファン・ジョンとペク・トヤンの二人が愛するユ・ソンナン(ハン・ヘジン扮)のような女性たちと無知な民たちがいる。そして「良い方と」「悪い方」は残り二つの部類を味方にしようとする。

民たちはワタナベが広めた噂にアレンは子ども達を捕まえて食べる鬼神だと誤解して、ペク・トヤンはファン・ジョンがユ・ソンナンに接近できないようにファン・ジョンの済衆院入学試験解答用紙をすりかえる。反面ファン・ジョンとアレンはいつも真心を見せてくれて状況を逆転させる。それで高宗(チェ・ジョンファン扮)が開化を「およそ人を悟らせること」という事はすなわち<済衆院>の世界観だ。

定型化された善悪対決に脱色された人物たち
済衆院vs済衆院トヤン.jpg開化は政治的方向の以前に善い人が愚昧な人を悟らせることで、ファン・ジョンは善い心で愚昧な者を「悟らせる」開化のアイコンだ。<済衆院>の劇的な面白みがファン・ジョンに集中されたことはこのためだ。本当の開化を実践するファン・ジョンは悪人に逼迫を受けるが結局白丁から医師に変身して自身と世の中を変える。余裕を持って進行されるペク・トヤンの悪行と違い、ファン・ジョンが危機を脱出しようとする瞬間ごとにサスペンスを極大化させる演出はこれをより浮き彫りにさせる。

しかしファン・ジョンの活躍が目立つほど「悪い方」はだんだん壊れる。<済衆院>の始まり当時ペク・トヤンは両班であるのに学者のかわりに医師を選択した仮面時代的な人物だった。しかし今のペク・トヤンは自分がファン・ジョンを済衆院からふるい落とすくせに何の苦悩なしに「敗北を潔く認めなければならないのに失望だな」という言葉を言うほどに厚かましい悪人だ。

「日本のピポクラテス」というワタナベは酒を飲みアレンへの嫌がらせの計画を立てるペテン師であるだけで、カン・ナムギル(訳者注:日本人医師ワタナベ役)、ユン・ギウォン(訳者注:トヤンの友人のジェウク役)、イ・ヒョジョン(訳者注:トヤンの叔父役)などファン・ジョン周辺の人々が終始一貫として高いトーンと軽薄な口調を使い自分が悪人である事を見せる。

MBC<白い巨塔>は善悪で分けられない人間の人生を眺めた。SBS<神の天秤>で殺人の事実を隠した犯人は良心と自分の利益の間で葛藤して少しずつ悪人になっていく。しかし二つの作品の監督と作家が出会った<済衆院>の悪人たちはまるで悪行を犯すために生まれてきた人間のように見えるだけだ。

ファン・ジョンが身分制度の矛盾から逃れようとする<済衆院>の序盤部は旧韓末バージョンの<レ・ミゼラブル>を期待するようにした。しかし<済衆院>はますますペク・トヤンがいじめてファン・ジョンが逃げて他の人々は二人の側で分かれる状況が繰りかえされる。

もちろんそれで<済衆院>は大衆的な長所を持つ。ファン・ジョンの人生を台無しにするくせに最小限の羞恥心さえもなく公正さを叫ぶ悪人たちは視聴者を怒らせる。この時代に常識的な正義が公然と崩れる事を目撃した人なら<済衆院>が単に旧韓末の物語にだけ見えはしないだろう。

女性たちから開化の希望を発見する
<済衆院>は善が悪に勝つカタルシスに忠実で、その限界の中で固有の完成度を持った。特に絶対の善に見えるほどやさしいファン・ジョンを未だ言葉につかえて野暮ったいながら時には切迫した青年の姿で消化するパク・ヨンウの演技はひときわ光る。

しかし<済衆院>は初めから今までファン・ジョンとペク・トヤンの対立、民たちの無知と変化だけ繰り返す。その反復性をファン・ジョンの極端な苦難と、血が飛び散り肉が裂ける生々しい手術で克服するには限界がある。

だから<済衆院>の希望は善と悪ではなくその間にはさまった女性たちであるかもしれない。女性たちは、済衆院>で最も積極的に自分の欲望どおりに動く。ユ・ソンナンは女性の限界を超えたくて済衆院の試験を受け、ある妓女たちは単に借金を返そうと済衆院に入ってくる。

既に行く道がわかりきっているファン・ジョンとペク・トヤンと違って彼女達は善と悪の両方から影響を受け渡して各自の人生を生きる事ができるのだ。そして彼女達の中で妓女になりたかったナンナン(シン・ジス扮)は帝王切開の場面を見て医女を夢見始めた。

今<済衆院>に必要な事は善い奴が悪い奴に勝つのではなく。そのように時代の流れによって「悟るようになった」人々の深くて生き生きした話ではなかろうか。(文:カン・ミョンソク)

記事原文はこちら↓

http://10.asiae.co.kr/Articles/new_view.htm?a_id=2010020914143849418


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